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...... 2023年10月07日 の日記 ......
■ 2009.11.21 京都講演会「日本」(1)   [ NO. 2023100704-1 ]
2009.11.21 京都講演会「日本」(1)

今日は京都です

タイトルは日本、という事です
この地、京都というのは平安京ですね
平安京というのは、ヘブライ語ではエルサレムと言います

私どもは、このエルサレムの地でニッポンについて改めて研究してみたいんですが
今日私が展開する話の中で
2つの大きなトピックが出てきます。
そして、その2つの大きな仮説に対して、猛烈に反発する人達がいます
それは、もー、わかっています。

そこには利害関係があるんです。
おそらくその人達は、頭ごなしで、頭ごなしに、総論否定をしてくると思います。
つまり、具体的な反論をするのではなくて、総論的に否定をする

つまり、それしか否定の方法がないような話が今日出てくると思います
ただし私の立場から言わせて頂ければ、今日の話はあくまで仮説です
これが真実かどうかは私にも分かりません。
しかしながら
真実に近い仮説というのは、物事を合理的に説明するんです
今日は私の話が、どれほど皆さんを納得させるか
それ次第によって、この話が真実であるかどうかを、ご自分で判断なさって下さい

それでは始めます。

ニッポンの話をする時に、46億年前にさかのぼる必要があるかどうか
地球が出来たところから話を始めると、たぶん最初の1%ぐらいで終わっちゃいそうだから
そこはちょっとはしおります

で、一応ですね、ニッポン列島が出来て、人間らしきものが住み始めたぐらいから話を始めましょう

という事で、
話の流れから言うと
旧石器時代というのがあるわけですね
旧石器時代は、一応人間らしき人達がニッポン列島に住んでいました

その人達は一体どこから来たのか?
日本で生まれたわけじゃない
どこか、大陸にいて、そこから海を渡って
ないしは凍った海を歩いて、ニッポン列島に渡ってきた。

おそらく、こんな人達であったろうと
なんか、毛むくじゃらで、髭が濃くて
目が大きくってと
いう事を、なんかこの絵を描いた人はイメージしたみたいです

実際おそらくそうだったでしょう
北の寒い所から来た人達なんですが
何故か、北には順応しないような大きな目をしていて
毛が濃くて、鼻が高くてと、いうのがどうやら本当だったようです

さて、そのあと、旧石器時代のあとに来たのが
縄文時代です
旧石器時代と縄文時代の大きな違いは、定住したかどうかです
縄文時代において、ニッポンに住んでいた旧石器時代の人達は
ある程度、定住をして、そこでもって狩猟生活をしたり、一部は栽培もやっています
農業とはいかないけども、例えば、非常に大きくて中身の濃い栗ばっかりを選んで、その栗を植えて
そこから栗の実を得ていたと、いうなことが、ある意味の栽培ですね、といった事もやってました
それが縄文時代という事で
それまでの所謂狩猟生活とはあきらかに違う生活形態です

じゃそれまでの狩猟生活、なにを狩猟していたのか?
これです
マンモスだの、大鹿だの、そういったものが、
この大陸から、凍った海峡を経由して、北海道のほうに象が渡って来た

で、こちらのほう。
対馬海峡の所は、まだまだ海が残っていたけども、
実は凍っていたんで渡れちゃったと。いう時代があったわけですね

その時代に、南からはナウマン象が、北からマンモスが。
日本列島に入ってきた、
で、その象や鹿を追いかけた猟師達が一緒に日本列島に入ってきたんです
これが旧石器時代の人間なんです。

じゃーね、えー、まー、そういった事で。
彼らの主食は象、
象ってのは食べた事ないんで分かんないんだけど、ウマイどうか分からんけど
まー、あの当時は、たぶんウマイもの選んで食ってる場合じゃなかったんだと思う
とにかく、取れるもの取らないともうホントで餓死してしまうような時代だったと思います

で、その当時、石を砕いて、それを武器にしたと
これを槍の先にくっつけたりしたりして、象と戦ったり
落とし穴に象を追い込んで捕まえたり、
もしくは、崖に追い詰めて、崖から落ちる事によって、その動物を狩る
動物の狩りをしたとか、色んな方法があったようです

で、その当時は、移動生活ですので、
定住するための家はなかった
どんな所に住んでいたのかというのを
学者の方が想像して、たぶんこんな所に住んでいたであろうと
いう風に想像されています

僕はこの形をみて、ありゃ、どっかで見たな
これはモンゴルのパオです
なにも変わらない
おそらくモンゴルのパオみたいな所に住んでいたであろうと

で、考えてみれば、モンゴルの民も定住してないんですね
要するに、放牧、羊だのラクダだのと一緒に移動しながら生活をしていた

旧石器時代の人達は象を追いかけて移動をしていた
その違いはあるにしても、なんだか非常に似かよってるなーと

元々彼らはどこから来たかというと
今のバイカル湖の南あたり、っていうとほとんどモンゴルなんですよね
要するに、この辺りにいた、民族が旧石器時代に日本に来ているんではないかと
で、今でもこの辺に似たような人達がいるわけです
こういう状況なわけです

旧石器時代は意外と日本人はあまりよく分かってないんだけども
かなりの所謂文化に近いものがあったであろうと、考えられます

これは、マンモスの子供
マンモスの子供がシベリアの凍土を掘ってみたら出てきたと
このマンモスの仲間がニッポン列島まで来ていたであろうと

どこだっけ
長野に野尻湖があって、そこではナウマン象の骨が見つかったりしてます
実際だからこういった形でニッポンにも旧石器時代があったんだと、いう事が今では定説になっています
この辺は別に知の先生も異説を唱える気は今んとこはありません、将来は分からないけど

という事で
そのあとに来るのが大事ですね縄文時代
縄文時代というのは、紀元前3世紀までの約1万年を示します
非常に長い間、が縄文時代だったんです
実はこの縄文時代っていうのを
イスラエルの歴史で見ると
紀元前722年に北イスラエル王国が滅亡してるんです
その頃ニッポンは縄文時代だと
向こうはすでにねイスラエル王国があったんだ
こっちは縄文時代
そのくらい差があった

という事は、紀元前722年に滅亡した時に
流民となったイスラエルの民は、
さてどこへ行ったんでしょう?かと
いう話が必ず出てくる

そうするとイスラエルの失われた10支族
の、行方がどうのこうのと、いうとこに結びついてくるんです
確実に結びついてきます、今日のあとほうでお話します

で、縄文時代というのは1万年
そのあとに来るのが弥生時代
今度この弥生時代ってのは、縄文時代とどこが違うかっていうと
これは明白、農耕、農業、
弥生時代に入ったらば、人間は今までそれまでやっていた狩りではなくて
水田を作って、そこに稲を植えて、そこから得たお米でもって生きて行くと
いう全く違う形態に変わったんです観音懺法
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴 従身語意之所生 一切我今皆懺悔

無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義

世尊妙相具 我今重問彼 仏子何因縁 名為観世音
具足妙相尊 偈答無尽意 汝聴観音行 善応諸方所
弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億仏 発大清浄願
我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦
仮使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没
或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊
或囚禁枷鎖 手足被杻械 念彼観音力 釈然得解脱
呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人
或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害
若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無辺方
玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋声自回去
雲雷鼓掣電 降雹澍大雨 念彼観音力 応時得消散
衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦
具足神通力 広修智方便 十方諸国土 無刹不現身
種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅
真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 浄願常譫仰
無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間
悲体戒雷震 慈意妙大雲 澍甘露法雨 滅除煩悩燄
諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散
妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念
念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙
具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼
爾時 持地菩薩 即従座起 前白仏言
世尊 若有衆生 聞是観世音菩薩品 自在之業 普門示現 神通力者 当知是人 功徳不少
仏説是普門品時 衆中八万四千衆生 皆発無等等 阿耨多羅三藐三菩提心

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